代表 豊澤友騎 | アスリードテニス

代表 豊澤友騎

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想い

テニスを通して相手を想いやる心、最後までやり通す力などの人間性、

対話と様々な事象に対して考える能力、自分で行動する力などの社会性を伸ばすことを重要視しています。

その結果、選手は理解力やコミュニケーション力が身につき、未来への可能性を広げることが可能です。

私自身、小学生から高校1年生の間は自己中心的な行動が多く、テニスが強い=人より偉いと勘違いをしていた時期がありました。

今思うと、そのまま大人になっていたら…と考えただけででゾッとします。

『テニスは1人で行うスポーツではない。相手がいて初めて出来るスポーツだ。』

と、その当時教えてくれたコーチがいました。

そして、そのコーチはこうも言いました。

『普段の生活が全てコートに(試合や練習成果に)出るのがテニスだ。日々の生活の中でスポーツ選手として正しい行動が取れなければ良い結果は出せない。』

この2つの言葉が私を今日まで導いてくれました。

社会人になった今でもこの時の教えが変わらずに結果を出し続けてくれています。

そして、この言葉と共に私も学んだことが1つあります。

『正しいことかどうかは自分で決める。決めたら最後まで責任を持つ。』

先の2つの教えがあったからこそ、私は自分で判断し、活路を開く人生を送っています。

それは、仲間との日々、いつまでも大切に感じる人との繋がりを成長させてくれています。

もちろん、その先に結果が伴ってくることは間違いありません。

簡単な道ではありませんが、私達と一緒に強くなりましょう!!

コーチを目指したきっかけ

新卒で入社した小売業の会社に勤務しているとき、突発性難聴になりました。

このままだと両耳共全く聞こえなくなる。

と診断され、悩み、自問自答していた時、

ふと、「このまま耳が聞こえなくなるならその前に何がしたいか?」と、思いました。

その時、自分でも思いがけない気持ちが自然と出てきました。

それが、大学時代に嫌いになってしまったテニスをもう一度やりたい。という気持ちでした。

自分自身も驚きましたが、横を通る車の音が聞こえず毎日が恐怖の繰り返しだった自分に

初めて前向きな気持ちが芽生えた瞬間でした。

それからは仕事をすぐやめ、勢いよく履歴書をテニスクラブとテニスショップに送りました。

よく考えたら、ラケットもシューズもウエアーもなかったので、ラケットは父親にもらい、シューズは安売りのものを買い、GUでウエアーなのか?という服を買いました。

そして、あっという間に研修が始まり、生徒さんの球の早さに驚き、コーチなのに球をよけるなどの日々が続きました。

そんな中、厳しくも優しいスタッフの方々や寛大な生徒さんに助けられ、昔の感を徐々に取り戻していきました。

すると、それまであまり聞こえていなかった耳が少しづつ聞こえるようになっていき、日々の充実感も増していきました。

この頃、私はテニスの影響力と人の大切さを重々と感じていました。

真っ暗だった毎日に色がつき、感謝でいっぱいの日々を送りました。

テニスに救われたこの経験から、テニスの素晴らしさ、人の大切さ、感謝する心を一生伝えていこうと思いました。

これが私がコーチになろうと決めたきっかけです。

生まれ

1986年 8月9日 獅子座 寅年 A型 千葉県千葉市出身

千葉市在住 2人兄弟 長男

略歴

〜1994年 ピアノ、水泳、を習う

1994年 小学2年生 夏 テニスを始める 英語も習い始める

(テニス以外の上記習い事を全てやめる)

1996年 英語をやめる

1999年 中学部活(軟式)入部

2000年 中学部活退部

2002年 東京学館高校入学

2005年 駒澤大学入学

2008年 株式会社ユニリビング入社

2010年 テニスサポートセンター 勤務

〃   武蔵ドームテニススクール 勤務

2012年 アスリードテニスアカデミー 設立

〃   tennis shop 3plus OPEN

2015年 アスリードテニスガレージ OPEN

テニスの戦績

1996年 初心者大会 S 準優勝

1997年 関東ジュニア S,D 出場

1998年 関東ジュニア D 出場

2001年 千葉県ジュニア S ベスト4

〃   関東ジュニア S,D 出場

2002年 関東ジュニア S 出場

〃    インターハイ予選千葉県大会 団体 優勝

〃    インターハイ本戦in茨城県 団体 2回戦

〃    新人戦千葉県大会 S 優勝 D 準優勝

2003年 千葉県ジュニア S 準優勝

〃    関東ジュニア S,D 出場

〃    関東ジュニアサーキット 桜田大会 SSC大会  S 優勝

〃    千葉県トーナメント一般 S 準優勝

〃    京王ウインター S ベスト4

2004年  インターハイ予選千葉県大会 S 3位

〃   千葉県U18大会 S 準優勝

〃   千葉県ジュニア S ベスト4,D ベスト4

〃   関東ジュニア S ,D 出場

〃   インターハイin岡山県 2回戦

〃   国体千葉県予選 準優勝

〃   国体本戦in埼玉県 3回戦

2006年    関東学生資格取得 D

趣味

読書(漫画) 映画鑑賞(映画館がベスト) サブウェイ カフェ スマホいじり(インスタ FB Twitter Line) 素振り チームウエアー依頼 店舗レイアウト変更 ガチャ 串カツ 明太子

ラーメン 焼肉 寿司 プロテイン 玉子 …。

経歴

〜幼少期

小さい頃から病弱な私は、月曜日に風邪を引き、金曜日までこじらせ、土曜に回復し、また月曜に風邪を引くような子でした。

そして、体を鍛えるべく小学生になった時、水泳とピアノを習いはじめました。

ですが、レッスン中に水に投げ飛ばされたことから水嫌いになります。

その頃から、レッスンのスタートから中盤まで腰洗い場で隠れ、10まで数えたら出るところに数千数えるまで隠れるようになりました。

一方、ピアノ教室に行っても、自分の引いているピアノの音で寝てしまうというダメっぷりを発揮していました。

見かねた母親は、小学2年生の春に同時に習い事をやめさせます。

少しの間、私は公園で毎日ひたすら遊ぶ子になりました。

そんな時、落ちているものを拾って帰る癖から1枚のチラシを拾いました。

そこには何が書いてあるか読めませんでしたが、母親に見せるとそこには、テニススクール生募集!!のようなことが書いてあったと聞かされました。

それをきっかけでテニスを始めることになります。

今考えると、なんとも安易な始まりです。

ただ、スクールに行くと褒めてもらえることと、勝負やゲームが楽しく、どんどんのめり込んでいきました。(レッスンは週1でしたが。)

当然、小学4年生で初めて出た大会では1回戦負けをしました。

運良くその後の試合は負けず嫌いな性格から勝つことが出来ましたが、負けず嫌いな子はたくさんいて、それだけで勝てる程テニスは甘い世界ではないと認識したのもこの年でした。

その頃から、頑張っては怠け、怒られ、また頑張っては反省を活かせず怠けるという日々を過ごしました。

更に追い討ちをかけるように私がダメだったところが、戦績が少し出た頃、強くなったと勘違いをして天狗になり、偉そうな口ばかりをきくような小学生になってしまいました。

そのことが災いし、学校でも初めていじめられ、唯一の楽しい場だと思っていたテニスクラブに行っても、嫌な目で見られることが自分でもわかるようになりました。

そして、日々の練習に身が入らず、楽しいだけのテニスをしてしまい、レッスン中にふざけすぎたり集中しなくなったりで、大会に出ても今まで負けたことがなかった子にも負けるようになってしまいました。

この時の私のレベルは、県大会で1,2回戦、体が健康になってきて日に焼ける時が増えて来た程度でした。

1度目のターニイグポイント

中学校に上がった春のことです。

相変わらず悩みはするけど、良く言えばペースを変えずに悪く言えば危機感もなく過ごす毎日を送っていました。

そこで人生初のキッカケが生まれます。

新しくテニスクラブに入ることになったコーチが、たまたま僕らの練習コートに現れました。

そこで私達の練習に参加してくれることとなり、その実力が驚きのものとわかるのです。

後から調べて知ったのですが、このときたまたま出会ったコーチはJOP50位(日本国内のテニスランキング)の方で、その実力は千葉県選手権大会も優勝し、全日本選手権にも出場している選手でした。

怪我を理由に選手活動は少なくなったところでのコーチ転職だったそうです。

その実力は今まで出会った人の中でも群を抜いていて、当時、アルバイトで来た学生コーチを毎回倒しておちょくっていた悪ガキだった私も、何も通用しない強いコーチでした。

そこで受けた体験と、中学1年生で言われた一言が私のその後を大きく変える言葉となりました。

『今の年齢でその実力のお前はプロになることは出来ない。諦めろ。』

その一言が私の心を大きく崩し、同時にテニスをする意味を持たせてくれました。

正直、これまでにないほどのショックでした。

ですが、そう言われたからには、自身の実力を受け入れ、甘えを捨て、行動を見直す決心をしなければいけませんでした。

今思うと、そこで前に進む一歩が踏み出せたことが何より良かったと思います。

そこで諦めていたら本当に終わりだったと思います。

その気持ちの中には、たくさんの想いがぐるぐる回っていました。

学校のみんなにはプロになると言っているので情けない。

今やめればまだ勉強で間に合うかも。

ただ、何もない体の弱い自分に戻るのは嫌だ。

親になんて話せばいいのか・・・。

主に私は絶望の中に怒りと悔しさと情けなさを糧に自身を変える決意をしました。

そして、中学からは試合やレッスンへの送り迎えは一切手伝わないと親に言われていたので、全て自分で行う為に、何が必要なのか?準備は何をしておくべきか?など、

当たり前だけど当たり前に出来なかったことを自分でやるようになっていきました。

これは今の時代では驚かれる方も多いと思いますが、何より子供を1人前の選手に育てる為には最良の方法だと私は感じております。

もちろん全てと言っても、金銭面やわからないことへの相談などは助けてもらっていましたが、基本的には自分で考えて行動するということが試合や練習への心構えに繋がると身にしみて学んだ時期でした。

周りを見渡せば、強くなった選手は皆これを理解して実践していましたが、中学生になってやっと気づくことが出来ました。

これは、今の時代においては選手のご家族も理解していかなければいけないことだと思います。

早い段階で気づけた私は幸運でした。

そうして強烈な変化の中、私の生活は劇的に進んでいきます。

泥臭く、今の時代では無駄が多いと理解されていると思いますがその当時の私にはすごく必要なことでした。

朝起床したらランニングなどのトレーニングから始まります。

学校に行っている間も時間があればトレーニングや素振りをしました。

帰ってからはもちろん夜遅くまで練習をするということをしていたら、最初こそきつかったですが、徐々になれ始め、気がついたら千葉県で4本の指に入るくらいは実力が付いていました。

才能がない人間が才能のある人間に立ち向かうにはやはりこれくらいは当たり前にやらなければ勝てないということを痛感した中学時代でした。

高校時代

トレーニングは独学でしたが、分厚い本を読み大事な点をノートにまとめトレーニングノートを作っていました。

高校時代は片道1時間半から2時間かけて白井のスクールと月に2回高島平にあるトレーニングセンターに通っていました。

練習時間は1日4〜5時間、朝練1時間程度でした。

そうして中学、高校では意識を高くもつことにより少しづつですが結果も伴い、インターハイや国体にも出れるようになりました。

高校の大会を引退した後、オーストラリアに遠征し、そこで考え方や将来についてを考えることになります。

ビンスバークレーテニスアカデミーでは、校長のビンスのお誘いもありオーストラリアでの選手活動を希望していましたが、諸々の事情により大学へ進学を決めました。

プロになることを1つの目標、通過点に考えていた私のテニス人生はこの時点で一度区切りをつけます。

ただ、このことでもの凄く後悔をしたのも事実です。

その後、大学に行くことで得られた掛け替えのない出会いに救われ、生き方を見つけるのですが、それはもう少し先の話です。。。

大学時代

大学では体育会2部リーグの学校に入学し、1年目でシングルスのレギュラーメンバーに入りました。

ですが、怪我や自身の意識の薄れから結果は出ず、ダブルスの関東学生止まりで大学生活を終了しました。

大学生活では、先に書いたように掛け替えのない出会いと、本当に自信を持って仲間だと人に言える存在の大切さに気づきました。

小さい頃から学校以外の場所で多くの時間を割いてきた私は、友達はいても仲間はいませんでした。

大学では一人暮らしで東京に住むことになったのですが、その右も左も分からない生活の中では、正しいことが何なのか?悪いことが何なのか?の区別を真の意味で考える必要がありました。

そんな迷いの中で仲間と言える存在は何にも変えがたい大切な存在でした。

仲間を知り、正しいことを決める心を持ち、それまでに犯した失敗から学び、当時はダメダメな弱い自分でしたが、それでも経験を活かして前に進む力になりました。

今は当時関わった全ての方に感謝しかありません。

ただ、就職に関してはそこでテニスとの関わりを断ち、別の業種へと進みます。

それはというと、大学2年生の終わり辺りからテニスも結果が出ず、怪我により上手くいかないことに悩みました、その結果以前から興味を持っていたインテリアや家具関係の仕事を学びたいと思う気持ちからでした。

更に、勝てないこともあり練習が嫌いになり辛いだけの日々に嫌気がさしテニスは嫌いになっていました。

兎にも角にも、そこから新たな人生がスタートしました。

社会人になって

某ホームセンターに勤めはじめ、テニスしかしてこなかった私には、刺激しかない時間が始まりました。

余裕もなく、研修では自分の実力の無さに恥ずかしさを覚え、そんな中でも虚勢を張り必死に自分を大きく見せていましたが今思うと恥ずかしすぎて消えたいです。

ただ、出来ないなりにも日々の仕事に追われながら感じるものはありました。

やはり、会社や世の中は人だなぁ。と思うことが多々あり、日々を重ねるにつれその想いは次第に大きくなりました。

しかし、その想いとは逆の現実を多々目の当たりにすることで、次第に心と体に影響が出てしまうようになりました。

1番のよくない現象は、笑えなくなったことです。

気づいた頃には自分ではどうしようもなくなり、この後、ストレス性難聴で耳が聞こえなくなるのですが、笑えなくなったことが何よりの辛さでした。

会社に入り、自分の出来なさにもがいた時間もありましたが、この日々があったからこそ今ただのテニスに詳しいだけのよくいるコーチとは違った魅力を出せるのだと思います。

その当時に仕事も常識もないダメで勢いだけの私を気にかけてくれる上司の方々がいたことに今でも感謝しています。

社会人として学ぶべきことは足りていないと思いますがこの数年間は今の自分を確実に支えてくれています。

そして、話は戻り、耳が聞こえなくなったことをきっかけに会社を辞めました。

後ろから走ってくる車の音が聞こえない恐怖は今思い出すだけでも怖さが蘇ります。

会社を辞める1ヶ月前、有給をもらいずっと家にこもり落ち込んでいるとき、ふと、思いました。

このまま全ての音が聞こえなくなるのならどうしようか?

そこで、自分でも驚いたのですが、さんざん考えた末、頭に浮かんだことは、

「テニスしたいな。」

そんなことがふと思い浮かんだのです。

嫌いになって一生やらないとまで思っていたテニスを思い出しました。

どうせ音が聞こえなくなるなら、最後にテニスしたいな。と思ったのです。

不思議としか言えないのですが、この時は心の底から意欲が湧きました。

それからはあっという間に辞表を出して、家を引っ越し、テニスショップとテニスクラブに履歴書を送りました。

復帰当時はやはり甘いものではなく、過去の肩書きに見合わない結果と技術の無さに周りの方にたくさん迷惑をかけました。

ですが、関わった人達皆がたくさん力を貸してくれました。

私はテニスという、暖かい人達がたくさんいるスポーツに救われ、徐々にではありますが体調も治っていきました。

現在とこれから

アカデミーと店舗とトレーニングジムで構成されているアスリードテニスアカデミーでジュニア育成を行っています。

将来世界で活躍するテニス選手を育成することによって、世界中の人達に夢を与えらる、そんな人材を輩出したいからです。
決して簡単な道ではないかもしれませんが、何としても実現したいのです。

何故ならば、それが私にできるテニス界への唯一の恩返しだからです。